空手指導者の皆様、のみならず空手道場に子供を預けている御父兄の方にお尋ねしますが、空手を習っている子供がケンカにもし巻き込まれたら、手を出すなと言いますか?
わたくしは、自分に非がないと確信できるなら喧嘩も買うてやれ、と言っております。
普通、大人はケンカを意識しながら空手をやってるわけではない。
ところが、子供社会にはケンカの種がそこら中にころがっているのです。
わたくしが白蓮会館佐賀道場を開設した当初の年少部の道場生の父兄から、うちの子が学校でボコボコにされて帰宅したという連絡を受けました。
その子曰く
『あいつは柔道やっているくせに、いつもいつも誰かを殴ってる。今日も◯◯を殴ってた。俺は今日、殴られているヤツに「おまえも◯◯なことばかりやってる から殴られるんだぞ」って注意したら、いきなり柔道やってるそいつが怒り出して「お前には関係ないだろ!」って俺を殴ってきたんだ。でも、俺は空手やって
るから我慢したよ。一発も殴り返さなかった。でも、あいつは柔道やってるくせに、いつも人を殴るんだ』
と事情を説明したそうです。
先生、こういう場合は我慢した方がいいのでしょうか、と訊かれました。
ガックリきました。
むちゃくちゃ衝撃的でした。
もちろん
『何を言ってるんですか!そんな時こそ空手を使う時じゃないですか。こんな時に我慢してやられなきゃならないなら、どう考えても空手してない普通の人の方がはるかにマシでしょ。』
と言いました。
とにかく悔しかったんです。
実戦カラテの看板を標榜しながら、うちの道場生が実戦で負けるなんて。
ちなみに、わたくしはそれまで空手を絶対に使うな、などと教えたことは一度もなかった。
ところが、どう使うかも教えてなかった。
一般的に空手を習ってるくせに暴力振るうなんて、という考え方が支配的です。
もちろん、そんなことくらい知ってます。
ただ、やられてるのに、やり返しちゃならないなんて決まりは絶対におかしい。
上記の子は、一般論として武道を学ぶ者ならみだりにその技術を使うなかれ、という通説を盾に、自分がやられたことを正当化したのです。
それが一番いかん。
まして、殴られている子を注意している。
これは、自分は加害者側に立っていることをアピールして消極的にイジメに加担し、未然に被害者との差別化を計って身を守ろうとしたのです。
許せない。
まして、自分が負けた理由は、空手を習ってるせいですか。
あり得ない。
とんでもないよ。
白蓮会館のカラテは実戦空手です。
相手を制圧するだけでない、私闘の避け方から、いったん始まってしまった喧嘩の解決法まで、全てひっくるめて実戦ですからね。
その日以来、折を見て喧嘩の話をちょくちょくします。
年少部でも、それから一般部でも。
少林寺拳法の宗道臣師は
『力なき正義は無力なり。正義なき力は暴力なり』
とおっしゃった。
英語にはForceとViolenceとふたつの単語がありますが、日本語ではどちらも暴力と訳します。
violenceは、文字通り暴力と訳しても差し支えなさそうです。
本来は『秩序を破壊する行為』という意味です。
だから、授業中のおしゃべりはバイオレンス。誰かを殴らなくても暴力なのです。
そのおしゃべりを教師がやめさせる行為をフォースと言います。
場合によっては生徒を叩くこともあるでしょう。
ところが、いくら人を叩いても欧米ではこの場合の教師の行為を暴力とは言わない。これはForceなのです。
Forceは、秩序に従わせる力。
violenceは、それを破壊する力。
英語を話す人は、武道を習う以前にForceとviolenceの区別が明確にできるのです。
でも、日本人にはこの区別がわからない。
人を叩く行為は何でもかんでも暴力です。
子供社会においては
『おまえ、あいつを殴れ。やらんかったら俺がおまえを殴る』
というような、どうしようもない選択に迫られることがある。
そんな時に、何が正義で、自分がどちらを選択するのかの判断ができてこその空手道だと思うのです。
『とにかく暴力はダメ』
とヒステリックに全面反対する人は、まず空手道場に出入りすらしてはならない。
だって、空手道場って人の殴り方を教えるところですから。
人を殴るのは悪かもしれない。
だからこそ己の拳の法による使用規定を教えこむのが空手道場の責務かな、なんてことを考えるのです。